いじわるって大人の目線

いじわるって大人の目線

田んぼ道へとお散歩に出かけた時のこと。

Aちゃんがてんとうむしを見つけました。「みて~!てんとうむしみつけた!」

それを聞いたBちゃんが「えっ、みせてみせて!」

けれどAちゃんは「だめ!みせたらん!」

Bちゃん「なんで?!Bちゃんもみたいのに」

そうやって言い合いしているうちに、Aちゃんが持っていた棒でBちゃんの胸を押してしまいました。怪我はなかったのですが、Bは涙を流しながら私のところに来て「Aちゃんが棒でぐってここ(胸をさして)さした。痛かった…」

私「そっか、痛かったなぁ。何があったの?」

B「てんとうむし見たかったのに見せてくれへんかった」

私「そっかぁ…テントウムシ見たかったんや。なんでAちゃんは棒でしたんやろなぁ?」

B「わからん」

私「Bちゃんはどうしたかったん?」

B「てんとうむし私も触りたかった」

私「そっか、その気持ちAちゃんに伝えてみる?」

B「うん」

ということでAちゃんのもとに。BちゃんはAちゃんの横で「Aちゃん、いたかったよ」と伝えるのですが(てんとうむしの事より痛さを先に伝えていたBちゃん)Aちゃんは答えませんでした。

しばらく待っても答えなかったので、私がAちゃんを抱っこして「Aちゃんはどうしたかったの?」と聞いてみると、しばらく沈黙の後、「Cちゃんにだけ見せたかったの」とボソリ。

私「そっかぁ。Cちゃんにだけ見せたかったのかぁ。」

A「うん」

私「なのにBちゃんが見せてって来たから最初は口で「やめて」って伝えてたけど、伝わらなくて棒でさしちゃったってこと?」

と聞いてみると

A「そう」と。

「そうかぁ、AちゃんのCちゃんだけに見せたかった気持ちも、Bちゃんのてんとうむしを見たい、触りたいって気持ちも大事にしたいよね。そういう時ってどうしたらいいんだろうねぇ…難しいねぇ…」と話すと、Bちゃんが自分の服を指さして「みて!おはな」。それを見たAちゃんも「ほんとだ!」「あっ、ここにもある!」

さっきまでの気まずさはどこへやら、2人とも笑顔で会話が始まりました。

どっちが悪かったのか、こうすればよかった、と大人が判断して裁く事はしたくなくて、子どもに投げかけてみました。でもそこで“こうすればよかった”と答えが欲しかったわけでもないのです。

こういったかかわりの積み重ねの中で子ども自身が“どうしたらいいのか?”を自分で考えていけるようになって欲しいと願うのです。

ぱっと見たらAちゃんがいじわるに見えるかもしれません。テントウムシくらい見せてあげたらいいのに…と。

でも自分が「〇〇に見せたい!」という強い想いがあったのに途中で友だちに入られ自分の思い志半ばで邪魔をされた!という気持ちに、何のいじわるさも感じられません。

まるで自分がテレビゲームをしていてもうすぐクリア直前に友だちがやらせて!と入ってきてしまいゲームオーバーになってしまった時のようですね(笑)

持っていた枝で押してしまったことも、最初は口で伝えてたのに相手がやめてくれなくて止めようとしたのでしょう。それだけ怒りがこみあげたのだと思います。大人も子どもに話しをする時「ダメだよ」と最初は優しく言っていたのに、子どもが話を全然聞かなくて「いいかげんにしなさい」と怒鳴る時は怒りがこみ上げているときではないでしょうか。

これって気持ちの原理は一緒だなとつくづく思うのです。子どもの場合は手が出てしまうこともあるけれど、怒りがこみ上げて我慢できなくなるというのは大人も日々あることですよね。

大人の目線で“いじわる”と見えることも目線を変えれば全然違うものが見えてくる。

友だちの関わり方は子どもが自分で経験しながら学んでいくものだけど、相手には自分と違う気持ちを持っていることに気付くヒントを周りの大人がさりげなく伝えられたらいいなぁと思うのです。

 

どっちが良い・悪いという簡単な話ではなくて、人には“気持ち”があり、その気持ちをどう受け止め尊重するか。それには大人が子どもの話に耳を傾けじっくり聴き、受け止め、尊重すること。もちろん中にはどんな理由があってもやってはいけないこともあります。その時は話を聴くこと抜きに言わないといけないことがある。

でもそうでない時以外は、子どもの想いを丁寧にくみ取れ、受け止められる大人になりたいなぁとしみじみ思います。

(みちこ)

※写真のてんとうむしを見ている子たちと本文の子たちは違います。たまたまてんとうむしを見ている写真があったので!