「何をさせるか」よりも、「どう関わるか」が大切

大人は勝手なもので、
「あれをさせたら、子どもはこうなるだろう。こんな力がつくだろう。」とか、
「あの体験が足りてないから、こういうのさせたらいいんじゃない?」とか考えることがよくあると思います。
よく陥りがちな思考です。
私は常々「体験の垂れ流し」にならないように気をつけたいと思っています。
子どもの心がココにあらず、であればどんな体験も意味をなさないことになってしまいます。
そこで、私が本当に大事だと思っているのは、
子どもに「何をさせるか」よりも、
「どのようなプロセスの中で、それをするのか」
「周りの大人はどのような関わり方でするのか」
ということです。
活動前、活動中に「子どもの心がどう動いているか?」と考えることがとても重要です。
また「何をするか」ではなく、「何をさせるか」と考える時点で、
本当に子どもの主体性がのっているものになるでしょうか?
(中里地区の諏訪神社横。こんなところ登れるの?!
と思うような崖も、いざやってみると登れちゃいます。)
お山の教室では「見守ること」「待つこと」を大切にしています。
基本的に活動(遊び)を決めるのは子どもたちです。
その日に、その時におもいついた遊びを思う存分遊びこめるよう、
可能な限りで見守っています。
(モクモクとおままごとがしたい子もいれば・・・)
(よし!木のぼりするぞ!の子もいる)
見守るスタッフは、危機管理をしながらの見守りなので、緊張感と手腕がいります。
(ああ~~~~~!!なんでこんなことするのーー!?)
とか・・・
大人の長年の余計な?経験から、
(ああ~~~~!!こうしたらいいのにー!こうやったらすぐにできるのにー!)
とか・・・
感じることがあります。
それでもグッと待つ。
もうちょっと待ってみる。
その塩梅を心の中で葛藤しながら、子どもたちと接しています。
(子ども同士で励ましあったり、どうしたらいいか考えたり、
伝え合う場面もあります。)
自分の五感で世界を知り、自分をつくっていこうとしている子どもたちにとっては、
大人が親切でと思ってやっていることが、余計なお世話のときもあります。
子どもが自分で考え、決め、選び取ったものを、実際に自分でやってみて、成功したり、失敗したり・・・
というそのプロセスを経験することが、「自分」をつくっていく上ではとても重要です。
まだ産まれて何年かしかたってない命とはいえ、子どもの人生は子どものもの。
その後の人生。
自分で考え、決めて、自分で自分の幸せを掴んでいく。
お山ではそのための練習をしているようなものです。
(宇受賀地区。宇受賀命神社前で。
子どもたちだけでなにする?の作戦会議中~。)
「見守ること」「待つこと」
でも一人じゃない。
横にそっといて「共感すること」
言うのは簡単ですが、とても難しいです!!
でも私はそれをやっていけるお山でありたいなと思っています。
(さーや)