幼いころの記憶

幼いころの記憶

『夜の海』がどんどんわたしに近づいてくるように思えてなかなか眠れなかった。

「自分たちの寝ているテントが波に飲み込まれるんじゃないかな、大丈夫かな。。」

と頭の中で考えながらも、波の音を聴いていつのまにか眠っていた。

わたしが幼い頃、家族で海の方へキャンプに行ったときの記憶。

昼と夜の海の違いを子どもなりに何か感じていたのかな…

他の部分はほとんど覚えてないけれど、あの時の海を今でも思い出します。

(海を目の前に…はじまりの会をした夏 多井地区にて)

海士に来て『海』がわたしの暮らしの中で身近な存在になりつつありますが

いろんな海があることに気づく。

夏の海にしかほとんど行ったことのないわたしが今、子どもたちと冬の海も

遊びこんでいる。冬の海でとこぶしを取ったり、ナマコにであったり、

「なんだこれー!?」と次から次へと出会う。キラキラした夏の海じゃないけれど

冬でも海で遊べるから子どもたちも「海へ行きたい行きたい!」わくわくしてる。

(なんじゃこれ~! 福井地区白津浜)

山の上から時化ている海をみんなで見る。

「海がまっしろになってるー!!波がつよいんじゃないの?」

「フェリー止まったかなあ…動いてるかなあ」

海が時化たら、フェリーは動かない。わたしたちは島から出られない。

そんな子どもたちは「今日は欠航でーす」なんて言いながらフェリーごっこを始める。

自然と隣り合わせの生活で、人間の力ではどうしようもないことがある事も

なんとなく感じているのかなあ。

わたしにとったら身近になってきた海もこの子達にとったら当たり前の存在か。。

(カタツムリ…触らせてね、どんな感じ?)

海に限らず、いろんな場所で遊んで、友達や大人、地域の方々と日々を過ごしている子どもたちが

大きくなった時にこんな日々を過ごしたことを覚えているのか…

幼い頃の記憶はほとんど覚えていないかもしれない。

そして、それぞれの力がいつ花開くかは誰もわからないけれど…

どんどん根っこも伸びていて力強く根を張っている真っ最中であること間違いなし。

(大きな木の下で 福井地区宮田神社)

以下引用ですが、私の好きな「センス・オブ・ワンダー」という本から…

「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、

さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。

幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。

(『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン)

お山の日々はまさにこれだと思うのです。

海の綺麗さだけでなく、怖さも身体で感じる。

それを共有できる仲間、大人がいることも大切。

わたし自身、自然の中に連れ出してくれた(お山の子達よりは断然少ないけれど)父に感謝だなあと思う。

例えば山を探検する何とも言えないわくわくする感じ。シイの実をこれでもかというくらい

食べたこと。「シイの実博士!」と言う謎の博士が生まれて楽しく歩いたこと。

そんなわくわくした記憶が、今の私に繋がっています。

みんなの中できっと消えないはず♪

(かほ)



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